「学長」と呼ばれるのが好きなんです
古典教養大学学長の宮下です。
再オープンから一か月が過ぎて、
新しいメンバーにぞくぞくご入会いただいています。
一度も実際にお会いしたことないのに、
この大学のことを信用いただけるなんて
その懐の深さと勇気に感謝します。
また、いつか実際にお会いできるときがきたら、
これまた感動するんだろうなと妄想しております。
常連でいていただいてる会員さんのおかげか、
入学いただくとほとんどの方が僕のことを「学長」と呼びます。
実は、これめちゃくちゃ気に入ってるんですよ。
あ、別に尊敬されたいというわけではなく、
むしろその逆なんです。
やはり、体験で授業に参加いただく方には
当然「先生」と呼ばれることが多いです。
でも、僕は「先生」と呼ばれるよりも「学長」がいい。
なぜか?
それは、ちょっと茶化してる感じがあるからです(笑)
だって、学長と呼んでいる人々は、
本物の学長だなんて思っていないでしょう?
(志村園長みたいな感じですよね)
茶化すことの何が大事かといえば、
茶化すことの本質は「批判」精神だからです。
ちなみに日本人って「批判」という言葉に対して、
「否定的に評価する」というイメージを持っていますが、
原義は「評価する」だけであって、
「肯定的」な評価でも「否定的」な評価でも批判なんですよ。
僕は会員の方たちに何かを教えて「やろう」などと思っていません。
僕のビジネスはとても単純です。
皆さんからお金を頂くこと、すなわち
それにより、生活の安心と、そして資料の経費を頂いて
忙しい皆さんの代わりに知識を「編集」する仕事なんです。
会員制のコミュニティとなると、
今の流行は一人のカリスマを中心にして、
その信奉者が集まるというビジネスモデルが多いですよね。
僕、あれが嫌なんですよ。
うちの大学に対して
「幸せ」とか「成功法則」とかそんなものを求めないでほしい。
僕は最高の材料を用意するけど、調理は自分でしてください。
哲学、歴史、宗教、文学には、
「幸せ」や「成功」などのヒントはたくさん詰まっています。
しかし、それらを組み上げるのは、本人の役割です。
最近は組み上げの作業をする気力がないのか、
口まで運んでくれるようなビジネスのほうが求められている気がします。
でもね、崇拝目的でくる人はこの大学に向いていないんですよ。
むしろ、どんどん批判してほしい。
だけど、「先生」って呼び方をしていると、
無意識に批判精神を削がれるんです。
だって、「先生、それおかしくないですか」っていうより、
「学長、それおかしくないですか?」」のほうが言いやすい(と思いません?)
教養の醍醐味は、当然だと思っていたものが、当然ではないと知る喜びです。
学長も批判できない会員に、そんなことは難しいでしょう。
くわえて、恐怖というのもありますよ。
人間って、おだてられるとすぐ調子に乗っちゃうんですよ。
「俺は大丈夫」って若いとき思っていても、人間は弱い。
それは文学でも歴史でも何度も繰り返されていることです。
今、33歳ですけど、そういった魔の手は伸びてきてるようにも思えます。
まさに、功利主義を洗練させたジョン・スチュアート・ミルの言葉。
満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。
同じく、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。
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