何のための教養か
古典教養大学で教養を学んで約4年が経ちました。これまでの学びが基礎編を終え、最近では応用編に進んでいると実感しています。教養を学ぶ前は、ただ読書をしているだけで内容が頭に入らず、読書数だけが増えている状態でした。しかし今では、読んだ内容の背景を深く考え、それを日常生活に応用できるようになっています。もっとも、最近では「教養を使わない」ことも増えてきたように感じます。
「教養を使わない」とはどういうことか、少し説明しましょう。それは、「教養があることを表に出さずとも、物事を解決できるようになってきた」ということです。教養を身につけた方ならお分かりかもしれませんが、知人との会話でマウントを取ってくる人がいますよね。ですが、そのような人たちの主張が、表面的だったり、受け売りだったり、誤解を含んでいたり、偏った思考に基づいている場合もあります。
そのような場面で、わたくしは間違いや偏りを指摘するのではなく、「すごいね」と穏やかに受け流すことができるようになりました。こうした対応ができるのも、自己完結的な「使わない教養」を養うことができたおかげです。
この能力を身につけるためには、単に教養を手に入れるだけでは不十分です。常にアウトプットを意識しながら、異なる価値観を持つ人や物事に触れていくことが重要です。そのような経験を重ねることで、本当の意味で「教養人」となれるとわたくしは思います。
今さらではありますが、わたくしはこんな疑問を自分に投げかけてみました。この質問は、わたくし自身だけでなく、ここで学ぶクラスメイトの皆さんや知人にも尋ねてみたいと思うのです。
教養初心者であれば、「基礎的教養を身につけて世界を広げたい」という思いがあるでしょう。中級者なら、「教養の幅を広げ、教養人と呼ばれるようになりたい」という願いが浮かぶかもしれません。
では、わたくし自身はどうだったのか。以前もお話したことがあると思いますが、わたくしが真剣に教養を身につけたいと思ったきっかけは、前職で組織構築に悩んでいたことでした。
当時、わたくしは東南アジアの一国における拠点の責任者として働いていました。その国では急激な経済的発展が期待されていましたが、一方で国民にはどこかやらされ感が漂い、マイペースな部分もありました。しかし、じわじわと人々の質が変わっていく様子を、わたくしは肌で感じていたのです。完全な階層社会である国、下層階級も衣食住に困ることがなくなり肥満体型が見られるようになり、「生きるために働く」意識が薄れてきたこと。ホワイトカラー層においては逆に、関係性で仕事を選ぶのではなく「報酬で選択するドライな感覚」に代わってきたことが伺えました。どうでしょう。VUCAの時代と言われて随分と経ちますが、日本も同じような雰囲気が漂ってきていないでしょうか。
今までとは何かが違う。いったい何が違う?どうすればよい?
自問自答する中で離職が相次ぎ、眠れない日々が続いていました。現在では日本においても人材流動性が高まり、エンゲージメントを重視したマネジメントが求められる時代になっています。当時のわたくしは目の前に起きている事と国、その歴史と国民性、そしてリーダーとは何か、彼らの幸せとは何か、どうすれば生産性が上げられるのか?なぜ人は辞めていくのか・・・。いくつもの課題が頭にうずまき、あの一瞬だけは睡眠導入剤のお世話になりながら、毎日を何とか生きていました。この状況、皆さんなら何に救いを求めに行くでしょう。。。友達?上司?カウンセラー?
次回は私と教養との出会い、そして教養とは何かを考えていきたいと思います。
・・・つづく。
その他のおすすめ記事
-
教養
-
授業記録:歴史入門 ジャンヌ・ダルク
2022年9月08日フランスが誇る、悲劇のヒロイン 本日は「歴史入門 ジャンヌ・ … -
教養
-
教養を使って旅をする
2024年12月03日さっそくですが、来年早々の冬旅の行先を決めました。 行先は南 … -
教養
-
一か月間、求められたのは「やさしい教養」
2020年10月09日オンライン開校から無事一か月が過ぎました。 多くのトラブルも …